父と母から引き継いだのは、レシピだけじゃない。お客さんとの信頼も、積み重ねてきた歴史も、全部ひっくるめて「新月堂の味」として受け取った。
それがプレッシャーにならないわけがなかった。
同じ味を守ることへの、静かな違和感
店に立ち始めた頃、私はひたすら「同じように作ること」を目指していた。父や母が作ってきたケーキ。それを崩してはいけないという気持ちが、ずっとあった。
でも、作れば作るほど気づいてくる。
「これでいいのだろうか」
スポンジひとつとっても、焼き上がりのたびに微妙なズレが生まれる。湿度、気温、素材のコンディション。同じように作っても、同じにはならない。それが悔しくて、何度も焼き直した。
受け継いだ味を守りながら、自分が納得できる味にしていく。そのふたつを同時に追いかける日々が、長く続いた。
素材との出会いが、スポンジを変えた ── リファリーヌという選択
転機のひとつは、米粉との出会いだった。
「リファリーヌ」という米粉がある。うるち米と餅米、2種類がある。一般的な小麦粉とは異なる、独特のきめ細かさと口どけ。最初に試したとき、スポンジの質感がはっきりと変わるのを感じた。
そして気づいたのは、食感だけじゃないということだった。
米には、日本人が古来から食べ続けてきた、なんともいえない甘みがある。砂糖で出せる甘さとは、どこか違う。舌ではなく、もっと奥のところに届くような感覚。遺伝子に語りかけてくるような甘さ、と私は思っている。その甘みがスポンジに宿ったとき、「これだ」と感じた。


ふたつの種類には、それぞれ異なる特性がある。うるち米のリファリーヌはさらっとした軽さがある。餅米のリファリーヌはもちっとした粘りと保湿性が出る。どちらが正解ということではなく、何を作るかによって使い分ける。それを体で覚えるまでに、相当な時間がかかった。
試作の数は覚えていない。失敗した生地を前に、また一から考える。その繰り返しだった。
知り合いの一言が、扉を開いた ── 宝笠ゴールドとの出会い
もうひとつの転機は、偶然の会話から生まれた。
同業のお菓子屋さんと話していたとき、「増田製粉の宝笠ゴールド、使ってみた?」という話が出た。それまで名前を知らなかった。

使ってみると、驚いた。
焼き上がりの色、きめの細かさ、ふっくらとした膨らみ。何より、新月堂のスポンジに求めていた「あの感じ」に、ぐっと近づいた気がした。
素材ひとつで、こんなに変わるのか。
長年探し続けていた答えの一部が、知り合いとの何気ない会話の中にあった。よい素材との出会いは、いつも思いがけないところからやってくる。
いちごショートに、すべてが宿る
新月堂のケーキの中で、私がいちごショートを特別に思っているのには理由がある。
シンプルだからこそ、ごまかしが効かない。
スポンジの食感、生クリームの甘さ、いちごの酸味。この三つのバランスが少しでも崩れると、すぐにわかってしまう。だからこそ、スポンジの仕上がりが店の実力をそのまま表す商品だと思っている。

あの頃の試行錯誤も、素材との出会いも、全部いちごショートの一切れの中に入っている。
受け継いだ味から始まり、自分が納得できる味へ。その道のりは遠かったけれど、今このスポンジを焼くたびに、「これでいい」と思える。
それが、30年かけて辿り着いた答えだ。

コメント